大寺さんと呼ばれた開口神社


沙界妖怪芸術祭の舞台である開口神社は、西暦200年頃、三韓征伐の帰途、神功皇后により創建されたと伝わり、海を護る役割をもち最古の国道といわれる竹内街道の西端にありました。
 また、天平18年(746年)行基が念仏寺、その後空海が宝塔を建立。江戸時代までお寺が境内にあったことから、今も「大寺さん」と呼ばれています。
 平安時代の終わりごろ、当時堺の中心部にあった開口村・木戸村・原村の三村の祭神が合祀され、三村宮(三村明神)とも呼ばれるようになりました。
 中世には堺南荘の鎮守としても知られ、神社の会所は堺の自治の中心を担った会合衆と呼ばれる人々の集会の場としても利用されました。
 明治時代には、神社境内に現在の堺市役所、大阪府立三国丘高等学校、大阪府立泉陽高等学校、堺市立第一幼稚園などが置かれたこともありました。神仏分離で寺は取り壊され釣鐘は本願寺堺別院に移転、三重塔は昭和20年の空襲で焼失しました。
 昭和39年に本殿が再建され、塩土老翁神(しおつちのおじのかみ)、素盞嗚神(すさのおのかみ)、生国魂神(いくたまのかみ)が祀られています。

みむらん坊伝説


開口神社には大きな楠がありました。そこに「みむらん坊」と呼ばれる天狗が住んでいたと伝えられています。
 「1日で千里の道を往復できる」という強者の天狗でしたが、ある日、大和吉野の大天狗と問答の闘いに負け、一夜のうちに吉野へ飛行して大天狗の膝下に参じ、朱塗りの立派な桜門をプレゼントしたそうです。
 この楠は、残念ながら堺空襲で焼失してしまいました。

 沙界妖怪芸術祭では、天狗「みむらん坊」に妖怪行列の先導をお願いしています。全国から集まった妖怪たちが、人間どもを恐怖のどん底に落とすため、開口神社から山之口商店街内を闊歩します。

他にもさまざまな伝説が!


開口神社を創建した神功皇后は、日本の第14代天皇・仲哀(ちゅうあい)天皇(ヤマトタケルの第二子)の皇后で、『日本書紀』での名は気長足姫尊。仲哀天皇崩御から応神天皇即位まで初めての摂政として約70年間君臨したとされます。開口(あぐち)とは、塩土老翁神(しおつちおじのかみ)が、それまで口を開いたことがなかったのに、神功皇后が神撰を奉ったところ初めて口を開いた、という言い伝えがあることに由来します。
 また名僧乾峯(けんほう)和尚に戒を授かった龍が、お礼として伝えた井戸を掘るとそこからは枯れることのない名水が湧き出したそうです。龍の名にちなみ「金龍井」と言われています。
 他にも、しらひげさん伝説や、行基や弘法大師が塩土老翁神と法談した影向石(ようごうせき)など、伝説が数多くあります。

金龍井
金龍井
影向石